“力ない大波が、鈍い轟きをたてて砂に砕け、幾度も繰り返すうちに12回となり、それは世界時計の鳴らす鐘の音である———12時になってしまった。そして今や静けさが訪れる。音ひとつ、風ひとつない。全てが固まり、死んだように静かである。私は密かに不安になりながら待ちわびる。まだ夜で、不気味さに満ちた長い夜である。どうなるのであろうか? 暗黒の深淵は空虚になり、汲み尽くされたのか? あるいはその下に、さし迫り、赤く燃えながら、何が待ち構えて立っているのであろうか?”







 人は35歳頃に、物事が変化しはじめる時がある。それは人生の影が現れ、死への下降が始まる最初の時である。この転回点への出会い方は様々である。ある人はそれに背を向けるし、ある人はそれに飛び込む。また外から何か重要なことが起こる人もいる。我々があることを見ないと、運命が我々に降りかかる。



 人は、先に考えることだけでも、快楽だけでも生きていけない。あなたは両方を必要としている。けれどもあなたは、先に考えることと快楽を同時にはできない。そうではなくて、あなたは交互に、先に考えることや快楽に身を置かなければならず、そのつどの法則に従って、いわば他方に背かねばならないのである。しかしながら、人間はどちらか一方を優先させる。ある人は思考を愛し、その上に処世術を築く。このような人は、自分の思考と意図を働かせるので、自分の快楽を失うことになる。そのため、そのような人々は老けており、険しい表情をしている。もう一方の人は、快楽を愛し、自分の感情と体験を行使するので、自分の思考を失う。そのため、そのような人は若々しく向こう見ずである。考える人たちは思考されたことの上に世界を築き、感じる人たちは感じられたことの上に世界を築く。あなたはどちらの原理にも真理と誤謬を見出すのだ。

 考える人のさまざまな快楽はいかがわしいものであるから、考える人は快楽を持たない。感じる人の思考はいかがわしいものであるから、感じる人は何の考えも持たない。感じるよりも考えることを好む人は、自分の感情を闇の中で腐らせる。それは熟するのではなく、腐敗物の中にひ弱な蔓をはりめぐらし、それらの蔓が光に達することはない。考えるよりも感じることを好む人は、思考を闇に放置したままにしておく。そこで思考はその闇の汚れきった隅々に蜘蛛の巣を張り、その殺伐とした網には蚊や蛾たちが引っかかっている。考える人は感じることの厄介さを感じている。というのも、考える人の感情は、概ね厄介なものなのだから。感じる人は、考えることの厄介さを考える。というのも、感じる人の思考は、概ね厄介なものなのだから。



 完璧とは無と同じようなものである。わずかなものを手元にとどめるなら、あなたは然るべきものを持っていることになる。認識し、知りたいというあなたの名誉欲と貪欲さ、寄せ集め、組み立て、包括し、応用できるようにし、影響を与え、制御し、秩序付け、意味と解釈を与えるというあなたの嗜癖にはきりがない。

 それは、自分の限界を超えるあらゆるものと同じく、狂気の沙汰である。あなたは自分がそうではないものを、どうして保てるであろうか? あなたはことによると、自分がそうではないもの全てを、くだらぬ知識と認識をくびきにして無理やり詰め込みたいと思っているのだろうか? 考えてもみなさい。あなたは自分のことを知ることができるし、それであなたは十分知っているのだ。しかしながら、あなたは他人やほかのもの全てを知ることができない。自分を超えて知ろうとしないよう注意しなさい。さもなければ、自分の知識の傲慢さで、他者の生を息詰まらせる。他者は他者で自分自身のことがわかっているのだ。知識ある人は自分自身について知っているかもしれないが、それがその人の限界である。



 知恵は単純ではあるが、ただ簡単なだけではない。だから賢い人は知恵を嘲笑う。なぜならば嘲りは賢い人の武器であるからである。彼は鋭利で毒のある武器を用いる。それは彼が単純な知恵によって打撃を受けたからなのだ。もしも打撃を受けていなかったならば、武器を必要としなかったであろう。荒れ野において初めて、我々は自分自身の甚だしい単純さに気づくのだけれども、それを白状するのをためらう。だから我々は嘲笑する。しかし単純なものに嘲りは届かない。嘲りは嘲笑する人に降りかかり、聞いたり答えたりする人が誰もいない荒れ野では、自分自身の嘲笑に窒息してしまうのだ。

 あなたが賢ければ賢いほど、あなたの単純さは愚かなものになる。まったく賢い者たちは、自分の単純さにおいてはまったく愚か者たちである。我々は自分の賢明さを増すことによって解放されるのではなく、賢さに一番逆らっているもの、つまり単純さを受け入れることによって解放される。といっても、我々は単純さに陥ることによって、わざとらしい愚か者になろうとしているのではなくて、賢い愚か者になるのだ。このことが超意味へと導く。賢さは意図と対をなしている。単純さは何の意図も知らない。賢さは世界を支配するけれども、単純さは魂を支配する。だから精神の貧しさの誓いを立て、魂に関わりなさい。それに対して私の賢さの嘲笑が湧き起こってくる。私の愚かさを、多くの人が笑うであろう。しかし、私自身が笑ったほど笑う者はいないであろう。こうして私は嘲笑を克服した。けれども私が嘲笑を克服し終えたとき、私は私の魂に近づき、私の魂は私に語りかけたのだ。そして間もなく、荒れ野が芽吹き出すのを目にすることになるはずであった。



 我々はただ表面だけに、ただ今日だけに生き、ただ明日のことしか考えていない。我々は死者たちに尽くさずに、過去を粗野に扱っている。我々は成功が目に見える仕事だけをしたがる。我々はとりわけ報酬が支払われることを望む。目に見える形で人間に役立たない隠れた仕事をしたとしても、我々は馬鹿げたことだと思うであろう。必要に迫られて、我々が手に触れられる成果を優先することは疑いの余地はない。それでもまったく世界の表面で自分を見失っている人たちほど、死者たちが惑わし、迷わせる影響を受けて苦しんでいる者たちはいない。

 死者たちのために、あなたが密かに為さねばならない、必要不可欠であるけれども、隠されたしかも奇妙な仕事、特に大切な仕事がある。自分の目に見える場所に到達できない者は誰であろうと、その人に贖罪という仕事を求める死者たちによって引き止められる。そしてこの仕事を果たすまでは、自分の外的な仕事にたどり着くことができない。なぜならば死者たちがそのような人を放さないからである。死者たちから解放されるように、そのような人は自分の行為を深く反省し、死者たちの指示に従ってひっそりと行い、秘密のことを成し遂げる。あまり前を見過ぎず、後ろや内を見て、自分自身を見失わないように。



 人は誰でも魂の中に、静かな場所を持っていて、そこでは全てが自明で簡単に説明がつく。全てが単純明白で、はっきり見てとれる限定された目的があるために、生を混乱させる可能性を前にして、とかくそこに閉じこもりがちとなる。そしてまさにこの場所が、滑らかな表面、日常の壁であり、カオスの秘密を覆う十分に守られ、ときおり磨かれた殻に過ぎないものなのである。あなたが、あらゆる壁のこの上なく日常的なものを突破するならば、圧倒するような流れとなってカオスが流れ込んでくる。カオスは単純なものではなく、無限に多面的なものである。カオスには形態がないのではない。仮にそうであったら簡単であろうが、そうではなくて、充溢しているだけに、混乱を招く上に抗し難いさまざまな像に満ちている。

 これらの像は死者たちであるが、単にあなたの死者、つまりあなたの進んでいく生の背後に残したあなたの過去の姿のありとあらゆるイメージであるだけでなく、人類の歴史における死者たちの集団であり、過去の霊たちの行列であって、その群れはあなた自身の寿命が一滴であるのに比べれば、大海のようである。私にはあなたの背後に、あなたの目の鏡の背後に、危険な影の群れが、うつろな眼窩から貪欲に視線を向ける死者たちが迫っているのが見える。死者たちは呻き声をあげて、どの時代においても解決されずに、死者たちが嘆き悲しんでいるものが、あなたを通して実現されるのを願っているのだ。あなたが何も気づいていないということは、何の証拠にもならない。耳を壁にあててみなさい。そうすれば、死者たちの行列のざわめきが聞こえるだろう。あなたがこれまで自分の人生から排除したもの、縁を切り弾劾したもの、あなたにとってこれまで間違った道であったり、そうであった可能性のあるもの全てが、その壁の背後であなたを待っている。あなたはその壁のその前に平気で座っているのだ。



 あなたが本を読むと、風変わりなことや前代未聞のことを欲しがった人たち、自分で罠をしかけておきながらほかの人たちによって狼捕りの落とし穴で捕らえられた人たち、最高でありかつ最深のものを欲しがった人たち、そして歴史という記念碑から運命によって未完のまま抹消された人たちのことについて知ることになる。生きている人たちのうちのほとんどは、そのような人たちのことを知らず、知っている数少ない人たちもそのような人たちを評価せず、首を横に振るばかりである。

 あなたがそのような人たちを嘲笑している間に、その中の一人が、あなたが鈍感であるがために自分を心に留めもしないことへの怒りと絶望に息を詰まらせながら、あなたの背後に立っているのだ。彼はあなたを眠れぬ夜にして苦しめ、時にはあなたを病気に追いやり、時にはあなたの思惑を頓挫させる。彼はあなたを高飛車で貪欲にし、あなたの何の役にも立たないあらゆることに対してあなたの憧れを刺激し、あなたの成果を不満のうちにかき消してしまう。彼は、あなたが何の救済も与えないあなたの悪しき精神としてあなたに同行する。

 あなたはこれまでに、昼を支配していたものの傍らで、正体を気づかれずにこちらに走り寄り、徒党を組んで騒ぎを引き起こしたあの暗き者たちのことを聞いたことがあるか? 大胆なことを企て、自分たちの神を讃えるためにはどのような悪事も厭わない者たちのことを?



 自分の危険な武器を自分自身に向けなかった者は、誰も自分自身を超えて上昇しない。自分自身を超えて上昇したいという者は、下に降り、自分自身を負い、自らを生け贄となる場に引きずっていかねばならない。しかしながら、手に取るように明白にできる外的な目に見える成功が、間違った道であるとわかるまでには、人間にいったい何が起こらねばならないのか。仲間うちで権力欲を満たし、他の人々との間では常に権力欲を満たそうとすることを断念するまでには、どのような苦しみが人類にもたらされねばならないことであろうか。人間の目が開かれ、自分自身の道と自分自身の敵を目の当たりにして、自分の本当の成功に気づくまでに、まだどれだけ多くの血が流されねばならないのか。

 どうか、あなたの欲求はあなたにおいて満たされるように。あなたが他の人々や他のものを自分として貪るとき、あなたの欲望は永遠に満たされないままとなる。なぜならば、あなたの欲望はもっと求め、最も貴重なもの、つまりあなたを求めているからである。こうして、あなたは自分の欲望を自分自身の道に向けざるを得なくなる。あなたが忠告と援助を必要とする限り、あなたは他の人々に頼んでも構わない。それでも、あなたは誰にも要求してはならないし、誰にも欲してはならないし、誰にも期待してはならない。なぜならば、あなたの欲求は自分自身においてしか満たされないのだから。あなたは、自分自身の炎で焼け死ぬことを恐れている。外からの憐れみも、自分自身への大げさな憐れみも、あなたがそうなることから何も妨げることができないであろう。というのも、あなたは自分自身によって生き、そして死なねばならないからである。

 あなたの欲望の炎があなたを食い尽くし、灰以外に何も残らなければ、あなたには持ちこたえるものは何もなかったということだ。それでも、あなたが自分を燃え尽きさせた炎は、多くのことを照らしだした。しかし不安のあまり自分の炎から慌てて逃げ出すと、あなたはあなたの仲間たちを焦がしてしまい、あなたが自分自身を欲望するのをやめない限り、あなたの欲望の燃えさかる苦しみは消えることがない。



 欲望をなくした人は、魂の場所にたどり着く。だが、もしその人が魂を見出さないなら、空虚の戦慄がその人を襲うだろう。そして不安が幾度も鞭を振りかざし、その人にこの世の空っぽのものごとを絶望的に希求させ、盲目的に欲望することへと駆り立てるだろう。その人は、自らの限りない欲望に翻弄され、自分の魂から離れ去り、二度と見出すことはない。ありとあらゆるものごとを追い回し、強引に自分のものにするが、その人は自分の魂を見出すことはない。なぜならば、魂はその人自身の内にしか見出せないからである。確かに自分の魂はものごとや人々の中にあるのかもしれない。しかし見る目のない人々は、ものごとや人間を捉えたとしても、その中にある魂を捉えることはできない。その人は自分の魂のことが何もわからないのだ。どのようにしてそのような人が、魂を人々やものごとから区別できるというのだ? その人が仮に自分の魂を欲望自体の中に見出せたとしても、欲望の対象の中に見出すことはない。欲望に支配されるのではなくて、欲望を支配しているならば、自分の魂に片手をかけていることになる。なぜならば、その人の欲望はその人の魂のイメージであり、表現であるからだ。あるものごとのイメージを持っているなら、そのものごとの半分は所有していることになる。世界のイメージは世界の半分を成す。世界をものにしていても、そのイメージを持たない人は、世界を半分しかものにしていない。なぜならばその人の魂は内容が乏しく何の資源もないからである。魂の豊かさは、さまざまなイメージから成っている。世界のイメージを持つ人は、世界の半分を所有する。それはたとえその人の人間性が貧しく、資源がなかったとしてもである。ところが、飢えは魂を獣にして、自らを害するものを貪り、自らその毒にやられることになる。友人たちよ、魂を養うことは大切なことである。さもなければ心にあなたたちの竜と悪魔を育てることになるのだ。



 さまざまな民族の運命が、ものごとの中であなたたちに示されるように、新しい生命はあなたたちの心の内に生じるであろう。あなたたちの内にある英雄が打ち殺されるなら、あなたたちに深みの太陽が、彼方から光り輝きながら、思いもよらぬところから昇る。ところが同時に、これまで死んだと思われていたものは全てあなたたちの内に蘇り、太陽を覆い隠そうとする毒蛇に変わる。そしてあなたたちは夜と混乱に陥るであろう。この身の毛もよだつような戦いでの多くの傷から、あなたたちの血がほとばしり出るであろう。あなたたちの驚愕と絶望は大きいだろうが、そのような苦悩から新しい生命が生まれるであろう。誕生とは、血と苦悩である。

 あなたたちは、かの深淵を知っていると思っていたのか? ああ、賢い者たちよ、深淵を体験するというのは、また別のことなのだ。全てはあなたたちに向かってやって来る。人間が、これまで自分の兄弟らにもたらしてきたありとあらゆる恐ろしいこと、そして悪魔のような無慈悲なことを考えてみるがいい。それはあなたたちの心において、あなたたちにやって来ることになっている。あなたたち自身の手にかかって自ら苦しむがいい。そして自分たちに痛みを与えているのは、あなたたち自身の邪悪で悪魔のような手であって、彼ら自身の悪魔と格闘するあなたたちの兄弟ではないことを知るがいい。

 私は、殺害された英雄が何を意味するのかを、あなたたちに理解してほしい。現代において王を殺害する名もなき人間たちは、魂にしか当てはまらないことをものごとにして示す、先の見えない予言者である。王の殺害によって、我々の内にある王、つまり英雄が脅かされているのだということを、我々は教えられた。このことがよい兆候あるいは悪い兆候と見なせるのかどうかについては、我々は関心がない。今日においてひどいことは、百年後にはよいことかもしれないし、二百年後にはまた悪いことかもしれない。けれども我々は何が起こっているのかを認識せねばならない。つまりあなたたちの内には、あなたたちの王、代々からの支配者を脅かす名のない者がいるのだ。

 英雄は、自分に為し得ること全てを展開させようとする。ところが、名もない深みの精神は、人間に為し得ないこと全てを浮上させようとする。できないということは、さらなる上昇を妨げる。より偉大な高みは、より偉大な美徳を必要とする。我々に美徳はない。我々ができないということによって生きることを身につけて初めて、我々はそのような美徳を生み出せる。できないということに我々は生を与えねばならない。一体それ以外にどのようにして、できないということができるということへと発展するというのだ?

 我々は自分自身のできないということを打ち負かせないし、克服もできない。けれどもこのことを我々はまさに望んでいたのである。できないということが我々に降りかかり、生への分け前を要求する。我々は自分にできることを見失い、それをある種の喪失であると信じるようになる。ところが、それは喪失ではなく獲得なのである。ただし外的な財産ではなく、内的な能力の獲得なのである。

 自分ができないということとともに生きていくことを学ぶ者は、多くのことを学んだことになる。このことによって、我々は極めて些細なことを尊重し、そしてより偉大な高みが求める思慮深い忍耐を身につけるようになる。ありとあらゆる英雄的なことが消えているならば、我々は人間的なものの惨めさや、それよりももっとひどいものに立ち戻るであろう。我々の最も深い根拠が、動揺し始めるであろう。なぜならば、我々の外に向けられている極度の緊張が、我々の根拠を揺さぶるからである。

 あなたの内の英雄的なものとは、あなたが次のような考えによって支配されているということである。つまり、善はあれかこれか、必要な成果はあれかこれか、非難すべき事態はあれかこれか、ひたすら励んでいる仕事において達成されるべき目標はあれかこれか、いかなる状況下においても容赦なく抑圧されるべき快楽はあれかこれか、といった考えである。そうすることによって、あなたはできないということに対して罪を犯すことになる。それでもできないことは存在する。何者もできないということを否定したり、非難したり、声高に弾劾したりすべきではない。



 あまりにも多くの人たちが、自分の憧憬はどこにあるかを知ろうとしない。なぜならば、それは不可能であったり、あまりに悲しかったりするように思えるからである。それでも憧憬は生の道である。自分の憧憬を認めないならば、あなたは自分に従うのではなく、ほかの人たちによって予め示された他人の道を歩んでいることになる。そうすると自分の生ではなく、他人の生を生きていることになる。けれどもあなたが自分の生を生きていないとすると、誰があなたの生を生きることになるのだ? 自分自身の生を他人の生と取り違えるのは馬鹿げているだけではなく、偽善的な行為だ。なぜならば、他人の生を本当に生きることは決してできないのだから。あなたはそのような振りをしているだけで、他人と自分を欺いている。なぜならば、あなたは自分自身の生を生きることしかできないのだから。

 あなたが自分の自己を諦めているなら、あなたは他人の自己を生きていることになる。そのことによってあなたは、他人において自己中心的に生きていることになり、しかも他人を欺くことになる。そうすると皆が、そのような生が可能であると信じ込む。しかしながら、それは猿まねであるに過ぎない。あなたが自分の猿まねの欲望に負けることで猿まねする人は猿まね的なものを刺激するものだから、ほかの人たちに感染することになる。こうしてあなたは、自分とほかの人たちを猿まねする人にする。相互的な模倣によって、あなたたちは平均的な期待に添って生きていることになる。この期待のために、どの時代にも、皆の模倣の欲求によって英雄というイメージが打ち立てられることになる。だから英雄は殺されねばならなかった。なぜならば、我々は英雄のおかげで猿まねする人になっていたからである。なぜ猿まね的なものから解放され得ないかわかるだろうか? それは、孤独と屈服への恐れからなのである。

 自分自身を生きるということは、自分自身が課題になるということである。自分自身を生きるとは快楽であると決して言ってはならない。それは喜びに決してならず、長い苦しみとなろう。なぜならばあなたは自分自身の創造主にならねばならないからである。自分を創造したいならば、最上にして最高のものからではなく、最悪にして最低のものから始めることになる。それゆえ、自分自身を生きるとは、自分に嫌気をもよおさせることだ、と言いなさい。生の流れが合流することは、喜びでなく痛みである。なぜならばそれは暴力に対抗する暴力、罪であって、聖別されたものを打ち壊すのだから。

 混乱する瞬間には、見境のない欲望ではなくて、あなたの先に考えることに従いなさい。なぜならば、先に考えることはあなたを難しいことへと導くからで、それが常に最初に来るべきものである。それはやはりやって来る。あなたが一つの光を探し求めているのならば、まず最初にもっと深い闇に落ちる。この闇の中で、弱々しい赤い炎の光を見つける。それはほんの少しの明るさしかないけれども、すぐ近くのものを見るには十分である。目的地とは思えない目的地に到達するのは消耗する。しかしそれはよいことである。



 耐え難きは、我々の内にある未来的なものとの緊張である。狭い割れ目を突き破り、新たな道を手に入れねばならない。 あなたは重荷を捨てようとし、避けられないものを避けようとする。しかし逃げ去るのは錯覚であり、回り道である。目を閉じなさい。道は一つしかなく、それはあなたの道である。 そして救済は一つしかなく、それはあなたの救済である。来たるべきものはあなたの内にあり、あなたから創られる。だから自分自身を見なさい。 決して他人と比べず、競わないように。ほかのどの道もあなたの道と同じではない。ほかの道は全てあなたにとっては錯覚であり、誘惑である。あなたは自分の内に道を完成させねばならない。

 ところが、なんという弱さ、なんという絶望、なんという不安なのだ。あなたは自分の道を行くことに耐えられないであろう。あなたは常にせめて片足だけでも他人に寄りかかろうとする。大いなる孤独に襲われないために。母なる慰め手が、いつも自分の周りにいるようにと。誰もがあなたを確認し、認め、悼み、慰め、勇気づけるようにと。誰かがあなたの見知らぬ道へと引っ張っていき、そこであなたは自分自身から逸れ、ほっとして自分を脇へと置けるのだ。あたかもあなたが自分自身でないかのように。誰があなたの行為を為せばよいのか? 誰があなたの美徳と悪徳を担えばよいのか? あなたはあなたの生を終えてはいない。全てが成就されねばならないのだ。時は迫っている。あなたはどうして一つのことを山のように積み上げようとし、もう一つのことを荒廃させようとするのか。



 あなたは地獄を恐れている。あなたは恐れねばならない。なぜならばそれを超えて、来たるべきものへの道は続いていくからである。あなたは不安と疑念の誘惑に打ち勝たねばならない。そしてその際に、あなたの不安は正当であって、あなたの疑念は理性的に筋の通ったものであることを、徹底的に洞察せねばならない。それなくして、いかにして本当の克服になるというのだ?

 救済と恩寵の獲得に関するいかなることにおいても、あなたは自分の魂に左右される。だからあなたには、いかなる犠牲も辛くはないはずだ。あなたの美徳が救済の邪魔になるならば、それを捨てなさい。なぜならば、それはあなたにとって邪悪なものになってしまったからである。美徳の奴隷は、悪徳の奴隷と同じくらいに道を見出しにくいのだ。

 もしもあなたが、自分の魂の主人であると信じているならば、その従者となりなさい。もしもあなたがその従者であるならば、魂を支配しなさい。なぜならば、そうすると魂は支配されることを必要とするからである。これをあなたの第一歩にしなさい。



 地獄の本質を、あなたはどう考えているのか? 地獄とは、あなたの意のままにもはやならないもの、あるいはまだならないものの全てを従えて、あなたのもとにやって来ることである。地獄とは、あなたが以前には達成できたことが、達成できないことである。地獄とは、あなたが望んでいないとわかっているもの全てのことを考え、感じ、そして為さねばならないことである。地獄とは、自分で目論んでいる真剣なことが全てばかばかしいことでもあること、洗練されたものが全て粗野なものでもあること、あらゆる善きものが悪しきことでもあること、あらゆる高いものが低くもあること、そしてあらゆる親切な行為が恥ずべき行為でもあることを、知ることである。

 最も深い地獄とは、地獄は地獄ではなく、陽気な天国であることに気づくことであり、それ自体で天国ではないけれども、あなたが気づく限りにおいて天国であり、あなたが気づく限りにおいて地獄なのである。

 不快なもの全て、気持ち悪いもの全てが、あなたにとって本当の地獄である。どうしてそれ以外にあり得ようか? ほかのどの地獄も、少なくとも見るに値するか、あるいは愉快であろう。しかし、それは決して地獄ではない。あなたの地獄は、あなたがかつて目を背け、罵り、見下し、足蹴にして自分の聖域から追い出したもの全てからできている。だから地獄を通っていくときは、自分に何が降りかかってこようとも、それに注意を払うことを忘れてはならない。軽蔑や怒りを引き起こそうとするもの全てと、静かに対決しなさい。そうすることであなたは奇跡を成し遂げる。あなたは魂のない者に魂をもたらし、ぞっとするような無から何かがもたらされる。



 あなたは地獄を恐れ、地獄を恐れていることを認めようとしない。しかしながら、あなたが恐れているのはよいことなのだ。恐れていると声を大にして言いなさい。恐れることは知恵である。恐れてなどいないと言うのは英雄だけである。しかしあなたは英雄の身に何が起こったのかを知っている。

 恐れ、そして震えながら、疑惑の目でまわりを見ながら、地獄に入っていきなさい。というのも、地獄は殺戮に満ちているからだ。また退路も確保しておきなさい。あたかも臆病者であるかのように注意深く進み、そうして魂の殺害者の機先を制しなさい。地獄はあなたを完全に吞み込み、泥で窒息させようとしている。

 地獄へ行く者は、地獄にもなる。それゆえに、あなたがどこから来たかを忘れないように。



C・G・ユング